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上町台地、夕陽丘界隈。
此処は、大阪のルーツを物語る、
歴史浪漫薫る地。

約6,000年前の
縄文時代前期までは、
海に囲まれた半島だった
「上町台地」。

大阪市内の高台として知られる此処は、大阪平野の中央、「大阪城」から「住吉大社」に至る、南北約9km、東西約2kmにわたる標高約10~25mの台地である。海や湖、河川や砂浜・干潟に囲まれたこの地は、古代「難波津」、「住吉津」と呼ばれる港を持つ水上交通の要衝であり、古墳時代から16世紀に至るまで、政治・進行・交通の中心地であった。

難波宮が造営された飛鳥~奈良時代、及び「豊臣後期」ともいわれる16世紀前半、一気に盛土、切土、谷の埋立てにより平坦面を多くつくる開発が行われることで、「半島」状の地形は大きくかたちを変え、現在にも残る上町城下町の町割りが成立している。つまり、「天下の台所」となる16世紀以前、歴史のすべてはここに在った。「大阪城」から「住吉大社」へ至る台地上には、遠く飛鳥時代・574年創建の「四天王寺」、7世紀創建の「難波宮跡」はもちろん、日本国土の御神霊を祀る「生國魂神社」が所在するなど、神話上にも登場する地が所在している。

そして悠久の歴史を超え、戦火・空襲を免れた地が多かった上町台地には、お屋敷町の風情が色濃く残され、多くの学校が立地する閑静な邸宅地となった。

西暦400年頃

大和朝廷が日本国家の統一を行い、多くの大型古墳が造られた古墳時代。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陸地と海の概念図

※西暦400年頃の上町台地の様子
大阪府ホームページ内公開資料「寝屋川流域の変遷」を基に作図しています。

古代の大阪湾は今より深く奥まっており、
上町台地は半島状の陸地であったと推測されている。

593年、聖徳太子によって建立された
我が国初の官寺「四天王寺」。
寺町界隈には、往時の記憶が
随所に留められている。

北山台地に歴史の痕を刻む「四天王寺」は、6世紀末、聖徳太子により建立された。
天王寺の地名の由来であるばかりではなく、その精神もまた、現代に継がれている。
寺は単なる寺院ではなく
「四天王寺七宮」と呼ばれる外護の神社群と
「敬田院」「施薬院」「療病院」「悲田院」で構成される
「四箇院」と呼ばれる施設を備えていたと言われ、
「敬田院」の精神を受け継ぐ「四天王寺高等学校・中学校」、
「施薬院」「療病院」の精神を受け継ぐ「四天王寺施薬病院」が、
北山台地に、文教と暮らしの礎として刻まれ、今なおその志を継承し続けている。

    • 藤原家隆顕彰碑「家隆塚」跡

      藤原家隆顕彰碑「家隆塚」跡

    • 藤原家隆が夕陽庵にて詠んだ句の句碑

      藤原家隆が夕陽庵にて詠んだ句の句碑

    • 四天王寺

      四天王寺

    • 四天王寺

      四天王寺

「日本書紀」に明記されていた
新発見。
現在の北山町は、
かつての“都”の中枢だった

鎌倉時代の歌人として知られる富士綿家陸の苦杯もこの地にある。
大化の改心に連なる政変に伴って生まれ、
推古以来、半世紀に渡る王都であった飛鳥に代わる都として計画されたと言われる前期難波宮。
我が国最古の歴史書である「日本書紀」にも「難波から京に至る大道を置く」と明記されており、
古代の都の形成を推察すると、
その朱雀大路は、現在の北山町に至るかたちで築かれたと推察される。

日本書紀

奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。全30巻。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  • 現代の地図

    現代の地図

    上町台地における現代(左図)と過去(右図)の道路比較図出典:『東アジアに開かれた古代王宮 難波宮』(積山洋著/新泉社)内「前期難波宮復元図」を基に作図しています。
    ※掲載の地図は略図のため、省略されている道路・施設があります。掲載の情報は2018年4月24日のものです。

  • 奈良時代の難波京区画図

    奈良時代の難波京区画図

    碁盤の目に区画形成されていた当時の難波京。難波大道は、
    平城京や藤原京へつながる都の重要な街道だった。

かつて海が迫っていた
上町台地に開かれた
熊野街道。

かつて海が迫っていた半島状の地形だった上町台地には、
西に淀川河口の「渡辺津」(現天満橋付近)を起点に、
「四天王寺」や「熊野九十九王子」のひとつ「阿倍王子神社」などを通り、
紀州の熊野三山まで続く「熊野街道」(「熊野古道 紀伊路(きいじ)」)が開かれた。
鎌倉時代に庶民にまで広がった「熊野詣」を物語る道は、
現在、住宅街の中でその面影を忍ぶことができる。

    • 熊野街道碑

      熊野街道碑

    • 熊野街道

      熊野街道

    • 阿倍王子神社

      阿倍王子神社

    • 熊野那智大社

      熊野那智大社

江戸時代。上町台地は、
「大坂冬の陣・夏の陣」の舞台に。

その北端に「大阪城」がそびえる上町台地は、7世紀以来数々の歴史の舞台であったといえる。
秀吉が築城した壮麗な「大阪城」は、その没後「大坂冬の陣」において落城。
戦の跡でもある「真田丸」の顕彰碑は今なお天王寺区に遺り、
「冬の陣」では徳川家康の本陣に、「夏の陣」では真田信繁の本陣となった茶臼山は、
現在「天王寺公園」の一部として遺されている。

  • 茶臼山(天王寺公園)

    茶臼山(天王寺公園)

  • 大阪城

    大阪城

  • 真田丸顕彰碑

    真田丸顕彰碑

上町台地、屋敷街の系譜。

上町台地を代表する住宅地として、関西でも芦屋と並び称されるのが帝塚山。
帝塚山そのものは、大正初期から計画的に耕地整理された、界隈では「新しい」開発地である。
他にも、そのお隣り北畠等があるが、悠久の歴史を刻む大阪城のお膝元より連なる清水谷、真田山、
そして北山町、真法院町もまた、大阪の歴史が生んだ屋敷街といえるだろう。

  • 現地周辺の街並み

    現地周辺の街並み

  • 現地周辺の街並み

    現地周辺の街並み

夕陽丘エリアは
大阪の「教育の源流」も語る。

物件周辺には、数多くの教育施設が点在している。すぐ近くにある「五条小学校」は創立100年を超える伝統校。
すぐ目の前の「夕陽丘高校」もそこはかつて「旧 大阪府女子師範学校」。
「旧 大阪府女子師範学校」は、現在の大阪教育大学のルーツ。まさに大阪教育の源流と言える場所である。

市立五条小学校

市立五条小学校

  • 熊野街道

    大阪府尋常師範学校女子師範学科
    (現大阪府立夕陽丘高等学校所在地)明治33年(1900年)当時の校舎

  • 熊野街道

    大阪府天王寺師範学校(現大阪教育大学天王寺キャンパス)
    明治34年(1901年)当時の校舎

古くから「文教エリア」として
耳目を集めてきた夕陽丘エリアには、
現在も多数の教育施設が集積。

大阪のルーツであり、
大阪教育の源流をも語る「北山町」。
資産家たちがこぞって居を構えた
この場所にしかない
“ここだけにある贅沢”を
ぜひご体感ください。