歴史秘話CHRONOLOGY

約700年前の砦を起点に
数多くの城主たちが活躍した
姫路城の歴史。

1333(元弘3年)

赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。
京に兵をすすめる途中、姫山に砦を築く。

1346(貞和2年)

赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。

1467(応仁元年)

応仁の乱。

赤松政則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる。

如水居士画像(崇福寺蔵)画像

1546(天文15年)

黒田孝高(官兵衛)、姫路城で誕生。

黒田孝高(官兵衛)、御着城主小寺家家老で姫路城主・黒田職隆の嫡男として姫路城で生まれる。 織田信長に反逆した荒木村重との戦いで有岡城に説得に出向き、1年間の受牢。 播磨に進出した羽柴秀吉の軍師として中国攻めなどに戦略的手腕を発揮する。

1567(永禄10年)

黒田孝高(官兵衛)、姫路城城主へ。

1567年(永禄10年)に「姫路城」城主となったのがキリシタン大名として知られ、 2014年にはNHK大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛(黒田孝高、如水)。

官兵衛が用いた印章には、当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記で「SIMEON IOSUI/シメオン じょすい(如水)」と刻まれており、 これは洗礼名である「ドン・シメオン」と出家後の号である「如水(じょすい)」を表しています。

また、「姫路城」の十字紋の鬼瓦は黒田官兵衛ではなく池田輝政の時代のものと考えられますが、 輝政がキリシタン大名だったかどうかは不明とされています。

1580(天正8年)

羽柴秀吉が黒田孝高(官兵衛)の勧めで入城。

中国毛利勢討伐の武将として播磨入りし1580年正月、三木城の別所長治を滅ぼし、播磨を平定。 その後、黒田孝高の進言を受け、同年4月、毛利氏攻略の拠点として姫路に入る。 1583年(天正11年)に大坂城を築くまで3年間姫路城主。

豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)

1585(天正13年)

秀吉の正室(北政所)の兄・木下家定が入封。

真柴久吉公播州姫路城郭築之図(兵庫県立歴史博物館蔵)

池田輝政像(鳥取県立博物館所蔵)

1600(慶長5年)

関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。

戦国武将・池田恒興の次男。小牧・長久手の戦で父と兄が戦死し、父の後を継いで大垣城主。 その後、岐阜城に移る。秀吉の小田原攻め、会津攻めに参戦。1594年(文禄3年)に秀吉の仲介で徳川家康の次女・督姫と結婚。 その後、関ヶ原の戦いでの武功が認められ、播磨52万石で姫路城主となる。

1808(文化5年)

家老・河合道臣(寸翁)が財政改革に着手。

1787年(天明7年)、21歳で家督を継ぎ、姫路藩家老に。1808年(文化5年)、 ときの藩主酒井忠道から負債73万両に膨らんだ姫路藩財政の立て直しを命じられる。 姫路木綿の江戸専売権取得や様々な藩営事業を行い、1834年(天保5年)には負債を完済。

1867(慶応3年)

大政奉還。

1868(明治元年)

酒井忠邦、版籍奉還を申し出。

最後の藩主となった酒井忠邦が天皇に領地と領民を返還する「版籍奉還」を発案。 1869年(明治2年9姫路藩知事に任じられたが、同4年廃藩置県により、 姫路藩は廃止されて姫路県が置かれた。

1873(明治6年)

姫路城、存城が決定。

全国城郭存廃・処分並兵営地等撰定方(廃城令)が発せられ、 姫路城は名古屋城や熊本城などとともに全国56の存城の一つに加えられることになった。

1889(明治22年)

姫路市誕生。

姫路城鳥瞰図(明治初期)

姫路城/明治三六年(一九〇三年)頃 (国立国会図書館蔵)


1931(昭和6年)

姫路城天守閣、国宝(旧国宝)に指定。

太平洋戦争の2度の空襲で姫路の町は焦土となるが、姫路城は難を逃れました。

1945(昭和20年)

姫路空襲。

1993(平成5年)

日本初の世界文化遺産に登録。

外観の美しさと城としての実用性を兼ね備え、日本の木造城郭建築の代表例としてユネスコの世界遺産リストにその名が登録された。

姫路城写真

Future

姫路の将来をもっと大きく、美しく、
そして快適に輝かせるために。

新しい医学・文化・アメニティなどを網羅した
イベントゾーンの整備で、さらに拡大する姫路都心。

「キャスティ21計画」ではさらなる整備が進行中。 医療・学術拠点となる「県立はりま姫路総合医療センター(仮称)」や2000人収容のホールを有するイベント空間「姫路市文化コンベンションセンター(仮称)」、 都心のオアシスとなる公園などを配したイベントゾーンが完成することで、将来へ向けて、姫路の都心エリアが大きく東へ広がります。